もともとはコートジボワールでの滞在録でしたが、5月から一日一冊読書することに決めたので、その感想を徒然書いていこうと思います。
チョコとコーヒーとはあんまり関係ない日記です。
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学校へは小型のバスと大型のバスを乗り継いで行きます。片道約2時間程度の道のりですが、大型のバスが非常に混んでいて、学校に着いた頃にはかなりへたってました。太郎の通学はこんな感じだったのかと、知り合って3年にして初めてその苦しみが分かった気がします。そんな苦労話を今まで適当に流していてすいません。
家の近くのものと違って、この学校は非常にきれいで、冷房もガンガンにかかっていました(=_=)一応は私立の大学に近いものらしく、通っている生徒も上品な服装をしており、学校の中では良いほうなのでしょう。
最初は英語の授業でしたが、まぁ私はずっとパソコンを持ち込んで一人でカタカタ文章を書いていました。英語のレベルは日本と同程度な印象を受けました。訛りが非常に強いし、やはり自分自身で話すということができていません。日常生活の中で友達と英語で話すということをほとんどしないという所も日本と同じです。言語の習得はやはり毎日触れることと、使うことが重要だと思います。毎日英語を読む、聞くことに加え、自分自身である程度の文章を瞬時に作れる(考えられる)ようになるために、友達と話す等のExerciseが大切です。Outputをすればやはり身につきます。英語で考えることのできる程の語彙力と瞬発力がついた後、Nativeに近いもっとこだわった言い回しを映画やテレビの中で研究すると良いと思います。余談ですが。
昼食は軽くサンドイッチを食べ、午後からは金融の授業でした。ここでは生徒が自発的に質問しており、非常に相互的に授業が行われている印象を受けました。聞いてみると、人前で質問することには何の躊躇いも感じないとのこと。質問しないといわれるのは、やはり日本人だけなのでしょうか・・・?
授業後は写真をかなり撮られました。日本人はもてるんですww
午後は家の周り(といっても半径500Mくらい)を探索しました。そのときの写真を載せます。
NGOでの活動は来週から始まるそうなので、それまでここでの生活にもっと慣れようと思います。最初は日本とのギャップのせいでかなりキツそうだと感じましたが、今では要領を得てきたので大分ましです。食事もそんなに悪くはないですし、夜もぐっすり眠れています。その二つが揃っていれば、まぁ大丈夫です。暇な時間は公務員試験の勉強やフランス語の勉強、そして現地の人の生活分析(いわゆる参与観察にあたるのでしょうか)にあてており、大分充実していると思います。発見は尽きません。
心配だった体の方もなんともありません。初日と2日目は買ってきてくれた水を飲んだのですが、3日ほど前からは現地の人と同じ水道水を飲んでいます。だって水を買いにいくのがめんどくさいんですもん。今までの経験からいくと、そろそろ体を壊してもおかしくない時期だと思うのですが大丈夫そうです。Mexico等で大分鍛えられたからでしょうか(笑)あの時は3日ほど寝込みましたからね~(-_-;)やっぱり人間は体を壊して強くなるわけですね♪v( ̄(││) ̄)v♪
日本大使館は人に聞けばすぐに分かります。大きな銀行の横にあるビルの8、9階が大使館になっています。私の個人的な思いとしては、「日本人の人が来るなんて珍しいわね、まぁお茶でも飲んで行きなさい」的なノリを期待していたのですが、そんな予想とは裏腹の、冷めたおばちゃんの応対が少し悲しかったですね・・・応対中ににこりともしないその態度は、かの有名な大阪大学教務課の女性事務員を思い出させてくれました。まぁ大使館の職員とはそんなもんでしょうね~
お昼は近くのカフェで軽くすませ、次は銀行に。銀行で外貨を両替するにはパスポートのコピーがいるらしいです。知らなかった・・・(-_-;)交換レートは、”1$ = 382CFA”なので、スーパーで行ったときより交換率は悪かったです。
この二つが主な用事だったので、続いては町の観光に繰り出しました。
銀行の目の前の公園のような所でかなりの人だかりができていたので、何かと思って覗いてみると、一人の男の人が何かを聴衆に向けて話しています。聞くところによると、ここでは毎日様々な集会が行われており、人々の意見の交換の場であるらしいです。政治に対する関心はやはり高いのでしょうか。
色々なお店の中には、アフリカの伝統的な着物専門店があったので、Pain?と呼ばれる伝統衣装を買ってみました。衣装といっても、この時点ではまだ単なる布でしかなく、仕立屋に行って着物にしてもらいます。お値段は4500~6000くらいで、これもピンからキリまであるのだそうです。布を買って仕立ててもらうとは、なかなか本格的ですね~
お昼はFou Touと呼ばれるアフリカの伝統料理を食べました。右手を使って食べるのですが、結構いけます。美味いです。ただ、手だとやっぱりこぼれてしまいますし、最後まできれいに食べることができません。続いてはYvesの通っていた高校を見たりしたのですが、印象的だったのは、イスラム教のモスクが町の真ん中にあったことです。個人的にモスクというものを見たのは初めてだったので、少し感動しました。中には入ることができませんでしたが、外観を載せておきます。
帰りは水上ボートで帰りました。一人150F(=40円)くらいでかなり安いです。ただ、船にしても車にしても、非常に空気が悪いのには閉口します。案外大阪よりも悪いかもしれません。排気ガスが本当にひどいです。
今日は朝からEvrardがComuter scienceを教えている私立の学校を見学してきました。家から徒歩5分くらいの所にその学校はあり、中学と高校が一緒になっているかなり大きなものです。
まず学校の管理室のようなところで、教員登録を行います。私立の学校では教員免許は必要ないらしいです。その代わり、BTS(高等技術者証書)などの資格が必要になります。EvrardはBTSと私立大学の卒業証書を持っているので、この学校で教えることができるわけです。学校制度についてはまた紙面を改めます。
この日は試験があるとかで、本来の教室が使えないようだったので、違う教室を探して右往左往しました。教室と行っても、電灯がなく、廊下と教室を区切るドアもありません。しかも、時間割というものがあってないようなものらしいので、廊下は常に生徒たちがごった返しています。廊下にはゴミが散乱しており、ここも町と同様に汚いです(-_-;)
さて、教室も見つかり、授業風景でも写真に収めようかと思った矢先、突然日本とComputer Scienceについて話してほしいと頼まれました。まさかの展開でしたが、AIESECで使おうと思っていた日本ネタを少しと、”Computer is future.”のキャッチフレーズで何とか乗り切ることができました。
途上国の人たちは、「高いビルがある近代的な都市」というイメージを日本に対して持っています。ですから、日本のことを話すときには、私は「美しい自然を持つ日本」というイメージをなるべく伝えるようにしています。日本の自然が私は好きですから。
結局次のクラスでも私が話すことになりましたが、どちらのクラスでも質問攻めに会いました。やっぱり日本人は珍しいようで、日本のことだけでなく、プライベートな質問まで幅広く聞いてくるので、人気者になったみたいで若干照れましたwwただ、そんな夢の時間も25分(短い!!)しか続きません。日本の授業は長すぎますが、ここの授業は短すぎです。やはりアメリカの大学の50分くらいが丁度良いように感じます。
帰りは生徒がそのまま先生について家まで来ていました。そしてそこから個人レッスンの始まりです。R介にとっては飛び上がって喜ぶシチュエーションですが、ここでは生徒が先生の家を訪ねてくるのは珍しくはありません。ちょっとうらやましいです。
本当は午前中にAIESECの方と日本大使館に行く予定でしたが、その約束は完全に忘れらており、結局明日行くことになりました。やっぱりちょっといい加減ですね。
宗派はプロテスタントだそうです。その辺はあまり詳しくないですが、まぁ教義や用いる聖書、ミサの進め方が微妙に違うわけですね。お祈りは神との対話です。この教会のお祈りの仕方はアメリカのKorean Churchで見たのと同じです。みんな必死になって叫びます。傍で冷静になって聞いていると最初は若干ひきます。ちょっと怖いです。
歌う音楽も少しアフリカ的なノリなような気がしました。もしかしたら同じ曲を歌っているのかもしれませんが、アメリカで聞いたものとは明らかに違う印象だったので、やはり文化の違いというものを強く感じました。ここでは一人が太鼓をたたき、一人がリードしながら皆が手拍子をしながらそれにかぶせて歌います。最後のほうになるともう汗だくです。アメリカの荘厳なミサも良かったですが、こちらのノリノリなミサも楽しくていいと思いました。
午後は家で文化交流です。彼らにはじゃんけんという文化がないのに少し驚きました。私にはてっきりじゃんけんというのは世界共通のものだという考えがあったのですが、そうではないんですね~。ちなみに、この日折ってあげた鶴の折り紙は、次の日になるとペットのうさぎが食べていました・・・(×_×)
ここでは町の中にゴミが散乱しています。基本的にゴミの収集というものはないらしく、家庭で出たゴミをその辺に捨てるからです。どこを見渡してもゴミばかりで、町の臭いもよくありません。白い象牙海岸のイメージは露知らず、この汚さにも少し失望しました。本当は政府が対策を打つべきなのでしょうが、川の氾濫で通行できなくなった橋の補修もしないような政府なので、それも難しいのでしょう。