詳細を語らないがゆえの奥深さがある。劇中に起こる全ての事柄を逐一説明することが当たり前なのではなく、多くを語らないがゆえに想像の余地が生まれ、多様な解釈を可能にする。
私の最初の感想は、カフカは世の中の理不尽さについて書いたのではないか、ということだ。理不尽な事柄は世の中に溢れているし、人はそれを甘んじて受け入れざるを得ない。実際、Kは最後まで理由を告げられることなく処刑されてしまうのだ。それは「屈辱」であるが、Kにはどうすることもできない。全ての事象には理由がある。しかし、カフカはKが逮捕された理由について最後まで文中で明かすことをしなかった。理由を徹底的に排除すること、それはすなわち理不尽さにつながり、何より人は説明のつかないものに得も言われぬ恐怖を感じるものである。そうした理由の排除が物語を不気味でとらえどころのないものにしているのではないだろうか。
このような第一印象を『審判』に対して抱いたが、カフカが同作品を執筆した当時、彼は恋人フェリーツェ・バウアーとの一回目の婚約を解消している。さらに、婚約解消の交渉では両者の友人を交えてホテルの一室で会談が行なわれ、カフカは日記でこの会談の様子を「法廷」と表現していた(Wikipedia参照)。では、この恋人との関係が同作品に反映されていると考えるとどのような解釈ができるのだろう。(ちなみに、カフカの作品では主人公がカフカ自身であることが自明である。)
カフカは全ての「文学でないもの」を仇敵とみなしていた。フェリーツェとの一回目の婚約破棄も結婚生活が執筆活動の妨げになるという理由からであった。ここで、彼女との関係をKの置かれた状況に例えてみると、逮捕は婚約であり、法廷は婚約を社会的に議論する場だと考えられる。つまり、フェリーツェとの自由な関係は、婚約という社会的な約束事を結んだことによって社会的・拘束的なものへと変化した。カフカはそのような束縛は執筆活動の邪魔だと考えて嫌う。彼の中では婚約破棄は当然の「無罪」なのであるが、社会的には愛する人と結婚するのは道徳的に当然のことであり、それを拒否する理由が執筆活動などとは到底受け入れられるものではない。彼の法廷における弁明も、彼の友人(作中の法廷ホール右半分の人々)は一応受け入れる素振りを見せるが、本心では全員の答えは一致しており、Kの弁明など当初から意味を成さないのだ。
カフカは結婚や家庭を持つことを嫌悪していたそうだが、同時にそれらを拒否するがゆえにそれらを渇望するという自己撞着に陥っていた。カフカは執筆活動を中心としたい。しかし、結婚すればかならず彼の自由は崩壊する。なぜなら、例え妻が彼の執筆活動についてある程度の理解を示したとしても、世間が、そして何より彼自身がもつ常識が彼を結婚における責任に束縛するからだ。だから結婚はしたくない。そうはいっても、結婚せず、子供を残さない人生というものの空虚さというものを十分実感しているため、やはり結婚を望まざるを得ないのである。
主人公を自分自身に見立てるということは、物語が自己に関する観察を表したものになるということである。自分を赤裸々に告白するような小説を誰が出版したいと望むだろうか。カフカが自らの小説を出版したくないとしたのは、それらが自分自身の内面を生々しく表現したものだったからであろう。
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