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- 2009.05.25 『破戒』
- 2009.05.21 『宇宙の声』
- 2009.05.18 『仮面の告白』
- 2009.05.16 『白夜行』
- 2009.05.16 『蟹工船・党生活者』
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「破戒」とは、聖職者がその属する宗教の戒律を破ることである。
私の実家がある香川県のとある市には、被差別部落だった地区が未だその評を有しており、日常生活の中で声高に差別を主張するものはいないが、私の家庭でも祖父母から「あまりその地区には寄りつくな」と言われたことがある。否、そう明示に言われたわけではなかったのかもしれないが、そういう暗黙の了解のようなものがあったのは事実だ。実際、その地区は暴力団の方々が多数居住していたそうなので、治安的な面も多分にあったのだろう。当地にいた頃は、穢多・非人等の賎民の方が暴力団になったのかと考えていたが、暴力団の歴史(
ウィキペディア参照)
を見てみると、あながちはずれでもなさそうである。
話が少しそれてしまった。破戒という小説は社会小説的な要素が非常に大きい。藤村は、身分平等を謳う近代社会の中でも依然として差別的な扱いを受ける丑松を主人公として描き、部落差別解放運動の先駆けとなった。『破戒』の発表された明治39年(1906)は、この部落差別問題が広く人々の関心を喚起しつつあった時点である。その大正3年(1914)になって、板垣退助らが最初の全国的な融和団体「帝国公道会」を組織し、大正11年(1922)に全国水平社運動が起こる。しかしながら、このような解放運動の高まりによって、『破戒』という作品に含まれる差別的な表現が問題となり、絶版、その後に再度刊行されるに至っても、一部の表現を改訂したため、初版本のもつ迫力が失われてしまったのは皮肉である。現在出版されている版は、初版本に沿ったものであるため、安心して読んでほしい。
『破戒』の最大の見せ場は、丑松が自らの戒律を破り、生徒の前で自分が賎民であることを告白する場面である。そこに至るまでの丑松の苦悩、当初は父の教えを守り、頑なに本当の自分を隠してきた丑松であったが、敬愛していた猪子蓮太郎の死によって戒律を破るその過程は、藤村によって克明に描かれており、私自身も引き込まれた。
唯一つ腑に落ちないのは、その告白の場面において丑松が謝罪したという点である。自分が賎民であることを隠さず社会的差別と戦う猪子先生の生き方に丑松は感銘を受けたのではなかったのか。先生の死によって自分の勇気を奮い立たせ、「我は穢多なり」と胸をはって破戒という行為に至ったのではなかったか。それなのに、丑松は生徒の目前で今まで賎民であることを隠していてすまなかったと謝罪するのである。それは差別的社会に反対し、人々に差別撤廃を啓発して一生を終えた猪子先生の生き方に全く反するものではないか。
賎民であることを告白すること、それ自体が非常に由々しき行為であり、丑松が告白という行為にのみ心をとられ、賎民という考え自体を否定する段階にまで自分を飛躍させることがあまりに突飛すぎたために、藤村は敢えて丑松に謝罪という形を取らせたのだろうか。実際、丑松は「仮令私は卑賎しいうまれでも・・・・」の文で、穢多であるからといって他の先生に劣った教育を生徒に施してきたつもりはないと言う。それは穢多だから劣っているという差別的考えを否定する思想の萌芽とも取れる。ただ、それにしても懺悔という行為でもって破戒とするのは、少し不適当な気がしたのである。
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ショートショートの名手である星真一の作品の中でも、長編の部類に入る作品。
ストーリーは、宇宙に憧れていた二人の子供が宇宙船の船員としてスカウトされ、宇宙を旅する冒険劇である。ジュブナイル小説とあって多少子供向けだった。表現も抽象的かつ平易な言葉使いで書かれており、絵本を読んでいるような夢物語的な世界観が非常に楽しめたが、人によって評価は変わるだろう。SF冒険ものの要素が前面に押し出されており、星真一の得意な皮肉っぽいストーリー展開を感じることができなかったので、個人的には他の作品の方が好きだ。
彼の作品は「世にも奇妙な物語」の中で実写かされていることも多く、昔テレビで見た観月ありさ主演の『殺し屋ですのよ』が星の作品であると知って驚いた。他にも『ネチラタ事件』等が映像化されている(ウィキペディア参照)。
誰しも仮面をかぶって生きている。自己の奥底にある根源的な欲求や本質が、世間の一般的な常識と相容れるものでなければ、私達は常識という仮面を被らざるを得なくなるだろう。そのような素顔に対して待っているものは、外界からの拒絶であり、大抵の者は拒絶を跳ねのける力を持っていないからだ。幼少期から試行錯誤を繰り返し、何度も何度も仮面を変えたり、重ねたりしていく中で、今の自分には素顔がどのようなものか思い出せなくなってしまった。
自分の素顔と自分が社会に適応できるように形作ってきた仮面との境界線は曖昧であり、素顔と思っていても、それは結局「肉にまで食い込んだ仮面、肉づきの仮面」でしかなく、『告白の本質は不可能』なのだ。三島もこの小説を自分自身についての独白と位置づけながら、それを同時にフィクションとしているのはそのような理由からだろう。いくら実体験に基づいて書かれた小説や自伝も、それは本質ではありえない。なぜなら自分自身でさえ自分の素顔が分からないのに、どうやって自分の本質を告白することができようか。
三島はこの小説の中で主人公の性欲に焦点をあて、彼がホモセクシュアルな欲求に気付き、それを仮面の下に隠す過程を丹念に描いた。このような性欲に関するは案外分かりやすいものではあるが、人の本質とは性欲のような根源的・原始的欲求以外の様々な要素で構成される。それが三大欲求から離れれば離れるほど、本質の捕捉は困難なものになるだろう。例えば、信念などというものも、口ではいかようにも言えるが、結局のところ青年期の経験から形成されてきた仮面でしかないのではないか。このように考えると、自分の持つ信念なんてものが、くだらなく、意味のないものに思えてくる。
しかしながら、私はそんな信念でも懸命に守っていきたい。それが仮面と呼ばれても、本質に仮面を被せ、本質に擬制した仮面を作り出すことができるのは、私達が人間であるからである。動物は仮面を被るようなことはしない。それゆえ根源的な欲求から進化して物事を考えることができない。私達は、仮面によって自分たちの欲求を隠す中で、擬似的な本質を作り出すことができるのだ。そのような擬似的な本質である信念を貫き通すことが、私が人間足りえる所以である。
この本で東野圭吾の著作を読んだのは二冊目である。初めて彼の作品に触れたのは、高校生時代に友達に借りた『秘密』であった。その後、『容疑者Xの献身』を映画で見たり、『百夜行』をYou Tubeで見たりして主要な作品をチェックはしていたのだが、ドラマの『白夜行』が非常に面白かったため、およそ6年ぶりに彼の著作を読むに至った。
私は、テレビを見て小説を読んだのだが、個人的にはテレビの方が良かったと思う。小説では、主人公の二人の心情を全く描かず、客観的な目で二人の行動とその結果を描写している。それはそれで非常に面白く、想像をかきたてられるものであったが、自分としてはどうしてもテレビの主役を演じていた山田孝之(私は彼の演技が非常に好きなのだ)と綾瀬はるかのイメージが強く残りすぎており、かつ彼らが劇中で見せた様々な思いを先に見てしまっていたので、小説が少し物足りないものになってしまった。しかし、小説を先に読んだ友人には、やはり小説の方が良かったという意見が多い。テレビによって作られた答えを先に知ってしまった自分は、小説で楽しめたはずのミステリーを純粋に楽しむことができなかった。
「俺の人生は、白夜の中を歩いているようなものやからな」
例えどんなにキツくても、何か一つ信じられるものがあれば闇の中でも歩いていける。
それが恋人であれ、神であれ、人がすがるものは人それぞれだけど、私の場合は何だろうか。今のところは、祖父母に恥じないような生き方をすることが自分の中の支えになっているように思う。
小林多喜二は共産主義運動にかかわり、その運動の中でこれらの作品を書いた。警察国家の暴状と人民の窮乏、生死を賭してそれと戦う労働者、農民、共産主義者の生活を描いた作品を発表し、日本の革命的プロレタリア文学の基礎を築いたが、最終的には特高警察に逮捕され、拷問により殺されている。
蟹工船は虐げられた労働者の奮起を、党生活者では共産党の党員が送る生活を描いている。『蟹工船』では、主人公達が共産党主義者ではなかったため、労働者の団結による一斉蜂起の必要性というものに焦点をあてたという感じがしたが、『党生活者』では共産主義の主人公が警察権力の目をかいくぐりながら、いかに貧困する労働者の救済のために奔走するかが描かれている。
世間では共産党といえば、赤軍などのイメージによってか快く思われていないように感じる。しかし、社会的弱者のために活動し、独立を維持するために政党助成金も受け取らず(当然、党費や機関紙の値段は高くなる)、平和憲法の大切さを主張するその姿勢には、私自身共感するところがあるのもまた事実である。確かに人権を侵害するような過激な活動も見られるが、それだけによって党全体を判断するのは間違いだろう。政党はその掲げる理念によってこそ真の価値を問われるべきである。
少し政治への関心が出てきたため、学生時代の内にもっと見聞を深めようと思う。正当の内実や活動方針を知るには、実際に中に入って活動するのが一番であるので、できれば一つの政党で支援活動等に従事しようと思う。今年は衆議院の中間選挙があるので、党活動も活発になることだろう。この機会を生かして、政治をより深く理解したい。