「破戒」とは、聖職者がその属する宗教の戒律を破ることである。
私の実家がある香川県のとある市には、被差別部落だった地区が未だその評を有しており、日常生活の中で声高に差別を主張するものはいないが、私の家庭でも祖父母から「あまりその地区には寄りつくな」と言われたことがある。否、そう明示に言われたわけではなかったのかもしれないが、そういう暗黙の了解のようなものがあったのは事実だ。実際、その地区は暴力団の方々が多数居住していたそうなので、治安的な面も多分にあったのだろう。当地にいた頃は、穢多・非人等の賎民の方が暴力団になったのかと考えていたが、暴力団の歴史(
ウィキペディア参照)
を見てみると、あながちはずれでもなさそうである。
話が少しそれてしまった。破戒という小説は社会小説的な要素が非常に大きい。藤村は、身分平等を謳う近代社会の中でも依然として差別的な扱いを受ける丑松を主人公として描き、部落差別解放運動の先駆けとなった。『破戒』の発表された明治39年(1906)は、この部落差別問題が広く人々の関心を喚起しつつあった時点である。その大正3年(1914)になって、板垣退助らが最初の全国的な融和団体「帝国公道会」を組織し、大正11年(1922)に全国水平社運動が起こる。しかしながら、このような解放運動の高まりによって、『破戒』という作品に含まれる差別的な表現が問題となり、絶版、その後に再度刊行されるに至っても、一部の表現を改訂したため、初版本のもつ迫力が失われてしまったのは皮肉である。現在出版されている版は、初版本に沿ったものであるため、安心して読んでほしい。
『破戒』の最大の見せ場は、丑松が自らの戒律を破り、生徒の前で自分が賎民であることを告白する場面である。そこに至るまでの丑松の苦悩、当初は父の教えを守り、頑なに本当の自分を隠してきた丑松であったが、敬愛していた猪子蓮太郎の死によって戒律を破るその過程は、藤村によって克明に描かれており、私自身も引き込まれた。
唯一つ腑に落ちないのは、その告白の場面において丑松が謝罪したという点である。自分が賎民であることを隠さず社会的差別と戦う猪子先生の生き方に丑松は感銘を受けたのではなかったのか。先生の死によって自分の勇気を奮い立たせ、「我は穢多なり」と胸をはって破戒という行為に至ったのではなかったか。それなのに、丑松は生徒の目前で今まで賎民であることを隠していてすまなかったと謝罪するのである。それは差別的社会に反対し、人々に差別撤廃を啓発して一生を終えた猪子先生の生き方に全く反するものではないか。
賎民であることを告白すること、それ自体が非常に由々しき行為であり、丑松が告白という行為にのみ心をとられ、賎民という考え自体を否定する段階にまで自分を飛躍させることがあまりに突飛すぎたために、藤村は敢えて丑松に謝罪という形を取らせたのだろうか。実際、丑松は「仮令私は卑賎しいうまれでも・・・・」の文で、穢多であるからといって他の先生に劣った教育を生徒に施してきたつもりはないと言う。それは穢多だから劣っているという差別的考えを否定する思想の萌芽とも取れる。ただ、それにしても懺悔という行為でもって破戒とするのは、少し不適当な気がしたのである。
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