誰しも仮面をかぶって生きている。自己の奥底にある根源的な欲求や本質が、世間の一般的な常識と相容れるものでなければ、私達は常識という仮面を被らざるを得なくなるだろう。そのような素顔に対して待っているものは、外界からの拒絶であり、大抵の者は拒絶を跳ねのける力を持っていないからだ。幼少期から試行錯誤を繰り返し、何度も何度も仮面を変えたり、重ねたりしていく中で、今の自分には素顔がどのようなものか思い出せなくなってしまった。
自分の素顔と自分が社会に適応できるように形作ってきた仮面との境界線は曖昧であり、素顔と思っていても、それは結局「肉にまで食い込んだ仮面、肉づきの仮面」でしかなく、『告白の本質は不可能』なのだ。三島もこの小説を自分自身についての独白と位置づけながら、それを同時にフィクションとしているのはそのような理由からだろう。いくら実体験に基づいて書かれた小説や自伝も、それは本質ではありえない。なぜなら自分自身でさえ自分の素顔が分からないのに、どうやって自分の本質を告白することができようか。
三島はこの小説の中で主人公の性欲に焦点をあて、彼がホモセクシュアルな欲求に気付き、それを仮面の下に隠す過程を丹念に描いた。このような性欲に関するは案外分かりやすいものではあるが、人の本質とは性欲のような根源的・原始的欲求以外の様々な要素で構成される。それが三大欲求から離れれば離れるほど、本質の捕捉は困難なものになるだろう。例えば、信念などというものも、口ではいかようにも言えるが、結局のところ青年期の経験から形成されてきた仮面でしかないのではないか。このように考えると、自分の持つ信念なんてものが、くだらなく、意味のないものに思えてくる。
しかしながら、私はそんな信念でも懸命に守っていきたい。それが仮面と呼ばれても、本質に仮面を被せ、本質に擬制した仮面を作り出すことができるのは、私達が人間であるからである。動物は仮面を被るようなことはしない。それゆえ根源的な欲求から進化して物事を考えることができない。私達は、仮面によって自分たちの欲求を隠す中で、擬似的な本質を作り出すことができるのだ。そのような擬似的な本質である信念を貫き通すことが、私が人間足りえる所以である。
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