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本屋さんで株入門書ランキング一位だったので買ってみた。
開いてみると、図解が非常に多く、カラフルで非常に読みやすい。株取引を始めるにあたっての準備、必要最低限の知識等を分かりやすく書いてくれているので、入門書としてはいいのではないだろうか。しかしながら、まだ株取引さえ始めていないので何とも言えない。おいおい評価しなおすつもりである。
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誰しも仮面をかぶって生きている。自己の奥底にある根源的な欲求や本質が、世間の一般的な常識と相容れるものでなければ、私達は常識という仮面を被らざるを得なくなるだろう。そのような素顔に対して待っているものは、外界からの拒絶であり、大抵の者は拒絶を跳ねのける力を持っていないからだ。幼少期から試行錯誤を繰り返し、何度も何度も仮面を変えたり、重ねたりしていく中で、今の自分には素顔がどのようなものか思い出せなくなってしまった。
自分の素顔と自分が社会に適応できるように形作ってきた仮面との境界線は曖昧であり、素顔と思っていても、それは結局「肉にまで食い込んだ仮面、肉づきの仮面」でしかなく、『告白の本質は不可能』なのだ。三島もこの小説を自分自身についての独白と位置づけながら、それを同時にフィクションとしているのはそのような理由からだろう。いくら実体験に基づいて書かれた小説や自伝も、それは本質ではありえない。なぜなら自分自身でさえ自分の素顔が分からないのに、どうやって自分の本質を告白することができようか。
三島はこの小説の中で主人公の性欲に焦点をあて、彼がホモセクシュアルな欲求に気付き、それを仮面の下に隠す過程を丹念に描いた。このような性欲に関するは案外分かりやすいものではあるが、人の本質とは性欲のような根源的・原始的欲求以外の様々な要素で構成される。それが三大欲求から離れれば離れるほど、本質の捕捉は困難なものになるだろう。例えば、信念などというものも、口ではいかようにも言えるが、結局のところ青年期の経験から形成されてきた仮面でしかないのではないか。このように考えると、自分の持つ信念なんてものが、くだらなく、意味のないものに思えてくる。
しかしながら、私はそんな信念でも懸命に守っていきたい。それが仮面と呼ばれても、本質に仮面を被せ、本質に擬制した仮面を作り出すことができるのは、私達が人間であるからである。動物は仮面を被るようなことはしない。それゆえ根源的な欲求から進化して物事を考えることができない。私達は、仮面によって自分たちの欲求を隠す中で、擬似的な本質を作り出すことができるのだ。そのような擬似的な本質である信念を貫き通すことが、私が人間足りえる所以である。
それがヘッセの本に限ったものではないのかもしれないが、一昔前までの文学には、病弱な主人公と彼が憧れる少年との友情関係を通じた自己の存在への問いという構図が多く見て取れるような気がする。三島由紀夫の『仮面の告白』でも同様の人間関係が展開されており、そうした他者からの影響を受けた結果の自己成長についての考察が、一種の定型として確立されていたのかもしれない。文学者の方の意見を聞いてみたい。
主人公のハンスは州試験を受験して神学校に入る、いわばエリートである。幼少から勉学ができたため、周りから担ぎ上げられて闇雲に(ハンス自身は勉学を楽しんでもいたので、あながち闇雲ではないかもしれないが・・・)勉強し、念願の神学校に入学するも、次第に神経衰弱に陥り、ついには退学してしまう。その後の彼の人生は言うまでもないが、何とも私自身の経験に重なるところのある話である。幼少から勉学ばかりに励み、「最も感じやすい、最も危険な子供時代」に、夜遅くまで勉強をしていたハンス。その反動は彼の身を焼いた。彼が神経衰弱に陥ってからも、周りの大人達はただただ憤慨するばかりで、誰も「彼」自身を理解しようとしない。
私自身、彼ほど勉強に励んでいたわけではないが、中学受験を親から進められ、そのために塾に通って勉学に励む毎日だった。その結果、念願(?)の学校に入ることはできたが、その反動は中学時代に訪れ、何度も退学になりかけたことがある。思えば、私の場合はまだ仲間や先生方に恵まれたため、そのような時代を乗り切ることができたが、そうではない人もたくさんいると思う。そのような人達はどうなってしまうのか。ハンスのように車輪の下に押しつぶされる運命を歩むのではないか。
「どうもわからん」「あの子はあんなによくできていたし、何もかも、学校も、試験もうまくいったのに」と、ある人は言う。
「あんたもわたしも、あの子にはいろいろなすべきことを怠っていたんだ。そうは思いませんかね」と、ある人は言う。
困難を乗り越えることのできるたくましい子供もいるかもしれないが、そうではない子供だっているのだ。一辺倒に教育を押し付けるような育て方ではなく、個人の資質に合わせた教育が必要だと思う。しかし、学歴主義が未だ根強い日本においては、それも難しいのが現状だ。やはりそうした個を生かす教育というのは、先生方の個別の気遣いによるところが大きいのだろう。本当に大変な仕事だ。
この本で東野圭吾の著作を読んだのは二冊目である。初めて彼の作品に触れたのは、高校生時代に友達に借りた『秘密』であった。その後、『容疑者Xの献身』を映画で見たり、『百夜行』をYou Tubeで見たりして主要な作品をチェックはしていたのだが、ドラマの『白夜行』が非常に面白かったため、およそ6年ぶりに彼の著作を読むに至った。
私は、テレビを見て小説を読んだのだが、個人的にはテレビの方が良かったと思う。小説では、主人公の二人の心情を全く描かず、客観的な目で二人の行動とその結果を描写している。それはそれで非常に面白く、想像をかきたてられるものであったが、自分としてはどうしてもテレビの主役を演じていた山田孝之(私は彼の演技が非常に好きなのだ)と綾瀬はるかのイメージが強く残りすぎており、かつ彼らが劇中で見せた様々な思いを先に見てしまっていたので、小説が少し物足りないものになってしまった。しかし、小説を先に読んだ友人には、やはり小説の方が良かったという意見が多い。テレビによって作られた答えを先に知ってしまった自分は、小説で楽しめたはずのミステリーを純粋に楽しむことができなかった。
「俺の人生は、白夜の中を歩いているようなものやからな」
例えどんなにキツくても、何か一つ信じられるものがあれば闇の中でも歩いていける。
それが恋人であれ、神であれ、人がすがるものは人それぞれだけど、私の場合は何だろうか。今のところは、祖父母に恥じないような生き方をすることが自分の中の支えになっているように思う。
小林多喜二は共産主義運動にかかわり、その運動の中でこれらの作品を書いた。警察国家の暴状と人民の窮乏、生死を賭してそれと戦う労働者、農民、共産主義者の生活を描いた作品を発表し、日本の革命的プロレタリア文学の基礎を築いたが、最終的には特高警察に逮捕され、拷問により殺されている。
蟹工船は虐げられた労働者の奮起を、党生活者では共産党の党員が送る生活を描いている。『蟹工船』では、主人公達が共産党主義者ではなかったため、労働者の団結による一斉蜂起の必要性というものに焦点をあてたという感じがしたが、『党生活者』では共産主義の主人公が警察権力の目をかいくぐりながら、いかに貧困する労働者の救済のために奔走するかが描かれている。
世間では共産党といえば、赤軍などのイメージによってか快く思われていないように感じる。しかし、社会的弱者のために活動し、独立を維持するために政党助成金も受け取らず(当然、党費や機関紙の値段は高くなる)、平和憲法の大切さを主張するその姿勢には、私自身共感するところがあるのもまた事実である。確かに人権を侵害するような過激な活動も見られるが、それだけによって党全体を判断するのは間違いだろう。政党はその掲げる理念によってこそ真の価値を問われるべきである。
少し政治への関心が出てきたため、学生時代の内にもっと見聞を深めようと思う。正当の内実や活動方針を知るには、実際に中に入って活動するのが一番であるので、できれば一つの政党で支援活動等に従事しようと思う。今年は衆議院の中間選挙があるので、党活動も活発になることだろう。この機会を生かして、政治をより深く理解したい。