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『山椒魚』とは、たかだか10ページの文章である。しかし、その10ページを読み終えると、何とも言われぬ不思議な心地にさせられる。多くを語らずとも読者に十分な感慨を抱かせることのできる文章が素晴らしい短編だと私は考えているが、その点で言えば、これまで私が読んできた短編の中では秀逸の部類に入る。
井伏鱒二のその他の作品に比べても、特に『山椒魚』は言葉遣いが独特であり、詩的に美しい。宮沢賢治が透き通った美しさだとすれば、井伏鱒二は無骨でごつごつとした美しさである。彼がこのような言葉遣いを敢えて用いることをしなければ、山椒魚の物語は何の変哲もない悲喜劇として薄っぺらいものになっていたと思う。特に最後の部分の山椒魚と蛙のやりとりが私の好きな部分であるが、この部分にいたっては、何か散文詩でも読んでいるような気分にさせられる。
本屋で五分もあれば読める作品である。一度でいいから読んでみてほしい。何度も読み返すごとに味の出る作品である。
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背表紙のあらすじには、盲目の春琴がその美貌を弟子に傷つけられ、奉公人である佐助もその姿を目に入れないために自ら盲目の世界に入るとあるので、これまた暗いお話かと思えばそうではない。幼少の頃から春琴に仕え続けていた佐助という奉公人の思いは恋というより崇拝であり、主人である春琴と同じ盲目になれたことは、真に彼女と心を通わせることにつながる。彼にとっては、盲目になるということ、それ自体がこの世にいながら極楽浄土を春琴と一緒に歩いていることに等しいのである。
作者の物語の描き方も特徴的である。語り手は、佐助が後年まとめた「春琴伝」なるものを読み、それに解釈を加えながら、春琴と佐助の関係を考察していくような描き方をしている。「春琴伝」自体が佐助という春琴の崇拝者かつ物語の当事者によって書かれたものであるので、当然にして彼の主観が存分に見られる。そこに語り手が、他の当事者の意見や解釈を交えながら、「こう書いてあるが、実際はこうだろう。」というように、春琴と佐助の関係を浮き彫りにしていく手法は、読んでいて春琴の神秘さを際立たせていた。
佐助と春琴の愛は決して直接に語られることはない。二人は、一般に愛の象徴とされる子供を三子もうけるが、すぐに里子に出している。子供という存在は、表に出せない二人の愛(世間的には公認の仲であったが、春琴の外聞を気にする性質から関係を表沙汰にはしなかった)を形式的に裏付ける一つの要素でしかない。二人は死ぬまで、そして死んでからも主従関係を貫いており、そこに佐助の武士道ともとれる純粋な精神が見て取れる。
生涯かけて一人の女性にとことん尽くす。どこか東野圭吾の『白夜行』に通ずるものがあった。後者はその尽くし方が歪んではいたけれど。両者は、主人公達の主観を描かないという点でも共通している。
自分の幸せよりも相手の幸せを願えることが愛するということなのだろう。
自分にはそんな生き方ができるだろうか。
最近立ち読みした自己啓発本の中に、深い観察力を鍛えることを推奨するものがあった。普段何気なく目にしている事物でも、立ち止まってまじまじと見直してみることで新しい発見があり、脳を刺激するとのことだ。ある科学者は、生徒に一匹の金魚を3日間観察させて気付いたことを残らずメモさせていたという。初めは不承不承だった生徒も、3日目には発見の数に魅了され、大いに知的な思考力が鍛えられるそうだ。
陰翳礼賛の中では、日本人の伝統的な建築、服装や食べ物に至るまで、「陰翳」の文化というべき特徴を指摘していた。例えば、教会と京都の寺を比べてみても分かるが、前者は鮮やかなステンドグラスによってできるだけ陽光を中に取り入れようとする反面、後者は屋根を広く外側に突き出し、室内に陽光が入るのはなるべく防ぐ造りになっている。他の日本家屋の作りもこれに似た特徴があるはいうまでもない。
昔の日本人が意図してこのような建築を行っていたのかは分からないが、その建物の中に生まれる「陰翳」に美しさを感じ、その「陰翳」と共に在ろうと、服装や作法までをそれに合う形で工夫してきたのは事実である。日本文化は「陰翳」の文化であるといっても過言ではない。
私もそのような日本家屋が非常に好きだ。祖父母の家などは玄関から入るとすぐ薄暗い廊下があり、その先に床の間があるのだが、夏の夕方、それも少し雨が降りそうな時分に訪ねると、えも言われぬ静けさと暗がりの中で、やや不気味に奥へと続く廊下を玄関口から見るのが心地良い。そして床の間に入った後も、電灯をつけずに、薄暗がりの中に広がる畳の部屋を見る度に非常に安心する。
こうした日本人ならではの価値観や感じ方を改めて見直し、それは何故なのかと自答し、立ち止まって観察することで得られる刺激は我々の精神生活を豊かにする。あくせくと仕事に追われて働く日々も充実しているだろうが、たまの休日などには実家に帰り、落ち着いた日本家屋の中で、当たり前にある物事についてゆっくりと思いを巡らすことも大切なのではないか。
http://www.kantei.go.jp/jp/asospeech/2008/12/081212kaikensiryou.pdf
麻生首相は12日、首相官邸で記者会見し、新たな雇用・金融対策を盛り込んだ総事業規模23兆円の「生活防衛のための緊急対策」を発表した。
記者会見の中で、麻生首相は3年後の消費税率引き上げを公言している。これは「日本経済は全治三年」という考えを受けてのことだろう。しかし、仮に3年後増税をするとなれば、逆算すると2009年度中には景気が回復し、2010年度中に法案審議・可決をしなければならない。上記のような景気対策で来年度中に景気が回復するというのは読みが甘いのではないか。
そもそも減税をしてすぐに増税するということを聞いて、消費が伸びるのだろうか。将来予期される増税に向けて貯蓄をしようとなれば、経済の活性化には繋がらない。増税が免れないのであれば、現時点で公言するのではなく、景気の回復を待って、ある時点で一気に税制改革を推し進めるべきである。これでは減税の効果も薄れてしまうだろう。
また、「雇用創出等のための地方交付税増額」についても、雇用対策という方向性は問題ないのだが、首相の答弁を聞くと、その使途はもっぱら公共事業を意図しているように思える。しかしながら、ニューディール政策ばりの公共事業による経済浮揚策はもう時代にあっていないのではないか。今問題となっているのは、派遣社員などの非正規雇用者であり、彼らへの支援として公共事業における雇用を創出しても効果があるとは思えない。
この雇用対策にしても、一方では「雇用創出しよう」、一方では「看護婦や介護士が不足しているから海外から労働者を受け入れよう」と言い、政府の意図が滅茶苦茶である。では、それらの二つの問題を一気に解決するということはできないのだろうか。社会福祉における雇用が不足するのは、仕事のわりに低賃金という労働環境の悪さに原因がある。では、そのような労働環境を整えれば自ずと雇用が生まれるであろう。わざわざ海外から高いお金をかけて労働者を呼び込む意味が分からない。今必要なのは、余剰が出てきている部門の労働者を不足の部門に回していくための環境を整える政策なのではないだろうか。
総じて言いたいのは、現在の政府にはどっちつかずの政策ばかりが目立ち、リーダーシップがかけているということである。それにはこのような政策しか出せない官僚の能力低下もあるだろうが、保身に走る政治家にも責任がある。ただ、このように傍観者として批判するのは簡単であるが、恐らく私よりも何倍も優秀な官僚の方々が同じような事を考えていないはずはない。そこには何かしらの問題があり、結局は今の政策が最良ということなのかもしれないし、麻生政権が早期に潰れることを睨んで今期にはあまり大々的な政策を出していないのかもしれない。
日本がまた立ち上がってくれるのを期待する。
今日は早稲田セミナー梅田校にて2次試験対策の討論練習があった。
テーマは・・・「中東問題とそれに対する日本の方策」
中東問題と聞いて、頭に真っ先に思い浮かんだのはパレスチナ問題、イラク・アフガニスタン支援・クルド人の人権保護問題の3つ。
どれもメジャーではあるが、主要な問題である。
当然のごとくパレスチナ問題から議論を始め、イラク・アフガンへと議論は移行する。
パレスチナ問題に対して日本ができることなんて限られているが、テロ抑止のための自衛隊派遣や対立する宗教の人々に議論の場を与える事で話し合い の地盤を固め、その上で和平プロセスを進めるよう外部からのプレッシャーをかけていく・・・というような感じで議論はまとまった。
イラク・アフガンについては、アメリカがアフガン支援に注力していく流れの中、日本があえてイラクを支援し続けることで、日本の国際社会における プレゼンスを高めていける。そのために、人道的救援(インフラ整備)やDDR(武装解除支援)を日本主体で行っていくべきである。その支援を自衛隊が担う べきである、といった感じでまとまる。
ここまでは予想通り、というか自分の思い描いていた形で議論を進めることができた。
次に出てきたのが、日本のエネルギー安全保障。
そこで非常に強い違和感を覚えた。そのときはその原因が何か分からなかったのだが、後で分析してみると、「中東の問題」であるのに、それは「日本の問題」ではないか?という疑念からくるものだったように思う。
自分の中で「中東の問題」というのは、「中東で非平和的・非人道的な事態があって、それによって苦しんでいる人が大勢いること」という定義だった のだ。そこで、エネルギー保障というのはどうしても利己的というか、日本中心的というか・・・・・自分と相容れない気がしたのだ。
しかし、後でLA(Learning Asistant)の人の聞いてみると、「やはり中東問題といっても、中東の人をむやみに助けるための視点 ではなく、その地域と日本の関係から何が日本にとって利益となるかを考える必要がある」と言われた。「だって”外専”だから。」と。
言われてみれば当然だ。パレスチナ問題やクルド人人権保護などの問題解決はあくまで手段なのであって、目的ではない。”国益”が目的なのだ。そう 考えると、石油といったエネルギーをどのように得ていくか、というのは世界第二位の石油輸入国である日本にとって死活問題とも言える重要事項だ。自分はそ こに思い至らなかった。否、思い至ってもそれが不適当であると切り捨てた。
つまり、自分はまだまだ世界の平和を夢見る井の中の蛙でしかないということだ。理想が現実に伴っていない。世界を平和にしましょうと言うだけなら 誰でもできる。では、それを達成していくために日本の権力を用いようと決めたのであれば、その権力を支持する国民の理解を得るためにどうすべきかというこ とも考えなければならない。
自分が進むのはそういう世界である。去年、「日本の利益を考える国際協力など国際協力とは言えないのではないですか?」と内海先生に質問したときに、「それこそ国際協力ではない」と一喝された。先生は色々な現場の現実を知っておられたのだと思う。
理想を掲げるのは大事だが、そこに現実を付加していくように心がけたい。