背表紙のあらすじには、盲目の春琴がその美貌を弟子に傷つけられ、奉公人である佐助もその姿を目に入れないために自ら盲目の世界に入るとあるので、これまた暗いお話かと思えばそうではない。幼少の頃から春琴に仕え続けていた佐助という奉公人の思いは恋というより崇拝であり、主人である春琴と同じ盲目になれたことは、真に彼女と心を通わせることにつながる。彼にとっては、盲目になるということ、それ自体がこの世にいながら極楽浄土を春琴と一緒に歩いていることに等しいのである。
作者の物語の描き方も特徴的である。語り手は、佐助が後年まとめた「春琴伝」なるものを読み、それに解釈を加えながら、春琴と佐助の関係を考察していくような描き方をしている。「春琴伝」自体が佐助という春琴の崇拝者かつ物語の当事者によって書かれたものであるので、当然にして彼の主観が存分に見られる。そこに語り手が、他の当事者の意見や解釈を交えながら、「こう書いてあるが、実際はこうだろう。」というように、春琴と佐助の関係を浮き彫りにしていく手法は、読んでいて春琴の神秘さを際立たせていた。
佐助と春琴の愛は決して直接に語られることはない。二人は、一般に愛の象徴とされる子供を三子もうけるが、すぐに里子に出している。子供という存在は、表に出せない二人の愛(世間的には公認の仲であったが、春琴の外聞を気にする性質から関係を表沙汰にはしなかった)を形式的に裏付ける一つの要素でしかない。二人は死ぬまで、そして死んでからも主従関係を貫いており、そこに佐助の武士道ともとれる純粋な精神が見て取れる。
生涯かけて一人の女性にとことん尽くす。どこか東野圭吾の『白夜行』に通ずるものがあった。後者はその尽くし方が歪んではいたけれど。両者は、主人公達の主観を描かないという点でも共通している。
自分の幸せよりも相手の幸せを願えることが愛するということなのだろう。
自分にはそんな生き方ができるだろうか。
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