書評を自分勝手に徒然と書いていくつもりでしたが、「タイトルと内容があってなくて分かりにくい」との指摘を受けたため、読書感想文のページを独立させました。以下、新しいブログ始めます。
暇があったら見てやってください。それでは。
PR
マーケティング理論の土台となる基礎的な内容を網羅している。マーケティングプロセスの各段階における理論を、有名な日本企業の事例を用いて分かりやすく解説しているため、イメージが沸いて非常に理解しやすい。就職活動時にコンサル対策でケース問題の練習を行ったが、先にこのようなビジネス理論の本を読んでおくと、ケース問題専用の対策本の理解が深まったと思う。
先にも述べたように、マーケティングというものを細かく分割して解説してくれているため、企業におけるマーケティングを進めていく上で、抜けている考え方や注意すべき点がないか等について逐一この本に戻って確認するというような辞書的な使い方ができるだろう。また、マーケティング部門以外の方についても、いわゆるビジネスの常識としてこの本を読んでもらいたい。
ただし、私自身は未だ働いていないので、実務を行う上で役に立つ内容なのかといった判断はできない。理論は所詮、机上の空論となり得る可能性を多分に含んでいる。また、基礎的であるが故に、その本を実務において応用できるか否かは自分次第なのだ。したがって、これから働く上で何度もこの本に立ち返ってみて、自分の血や骨となるように本書を読み込んでいくことが真に必要だろう。
こちらもインターンシップ先の企業から勧められた本。
想定している読者層は、未だWebを生かしきれていない中小企業の方々であり、Web戦略がどのようなものかについて、その重要性に焦点をあてて書いている。基本的な事柄しか書かれていないので分かりやすいが、実際にWeb戦略を行うにはWebコンサルタントに頼りなさいよ、という意図で書かれているので、Webマーケティングの方法論などを学びたい方には不向き。
WEBマーケティングの企業でのインターン採用面接で、とりあえず読んでくださいといわれた本。
用語の解説が丁寧になされていたため、WEB関連の知識がほとんどない私でもストレスを感じることなくスラスラ読むことができた。とりあえずの一冊。
詳細を語らないがゆえの奥深さがある。劇中に起こる全ての事柄を逐一説明することが当たり前なのではなく、多くを語らないがゆえに想像の余地が生まれ、多様な解釈を可能にする。
私の最初の感想は、カフカは世の中の理不尽さについて書いたのではないか、ということだ。理不尽な事柄は世の中に溢れているし、人はそれを甘んじて受け入れざるを得ない。実際、Kは最後まで理由を告げられることなく処刑されてしまうのだ。それは「屈辱」であるが、Kにはどうすることもできない。全ての事象には理由がある。しかし、カフカはKが逮捕された理由について最後まで文中で明かすことをしなかった。理由を徹底的に排除すること、それはすなわち理不尽さにつながり、何より人は説明のつかないものに得も言われぬ恐怖を感じるものである。そうした理由の排除が物語を不気味でとらえどころのないものにしているのではないだろうか。
このような第一印象を『審判』に対して抱いたが、カフカが同作品を執筆した当時、彼は恋人フェリーツェ・バウアーとの一回目の婚約を解消している。さらに、婚約解消の交渉では両者の友人を交えてホテルの一室で会談が行なわれ、カフカは日記でこの会談の様子を「法廷」と表現していた(Wikipedia参照)。では、この恋人との関係が同作品に反映されていると考えるとどのような解釈ができるのだろう。(ちなみに、カフカの作品では主人公がカフカ自身であることが自明である。)
カフカは全ての「文学でないもの」を仇敵とみなしていた。フェリーツェとの一回目の婚約破棄も結婚生活が執筆活動の妨げになるという理由からであった。ここで、彼女との関係をKの置かれた状況に例えてみると、逮捕は婚約であり、法廷は婚約を社会的に議論する場だと考えられる。つまり、フェリーツェとの自由な関係は、婚約という社会的な約束事を結んだことによって社会的・拘束的なものへと変化した。カフカはそのような束縛は執筆活動の邪魔だと考えて嫌う。彼の中では婚約破棄は当然の「無罪」なのであるが、社会的には愛する人と結婚するのは道徳的に当然のことであり、それを拒否する理由が執筆活動などとは到底受け入れられるものではない。彼の法廷における弁明も、彼の友人(作中の法廷ホール右半分の人々)は一応受け入れる素振りを見せるが、本心では全員の答えは一致しており、Kの弁明など当初から意味を成さないのだ。
カフカは結婚や家庭を持つことを嫌悪していたそうだが、同時にそれらを拒否するがゆえにそれらを渇望するという自己撞着に陥っていた。カフカは執筆活動を中心としたい。しかし、結婚すればかならず彼の自由は崩壊する。なぜなら、例え妻が彼の執筆活動についてある程度の理解を示したとしても、世間が、そして何より彼自身がもつ常識が彼を結婚における責任に束縛するからだ。だから結婚はしたくない。そうはいっても、結婚せず、子供を残さない人生というものの空虚さというものを十分実感しているため、やはり結婚を望まざるを得ないのである。
主人公を自分自身に見立てるということは、物語が自己に関する観察を表したものになるということである。自分を赤裸々に告白するような小説を誰が出版したいと望むだろうか。カフカが自らの小説を出版したくないとしたのは、それらが自分自身の内面を生々しく表現したものだったからであろう。