もともとはコートジボワールでの滞在録でしたが、5月から一日一冊読書することに決めたので、その感想を徒然書いていこうと思います。

チョコとコーヒーとはあんまり関係ない日記です。
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それでは、自分の人生の意義が大まかに定まったところで、次は何をして生きていくかです。どのようにして人々に影響を与えていくのか。正直な話、これは何でも良いのです。医者になるなり、サラリーマンになるなり、ミュージシャンになるなり、どのようなことをしていても、人と関わっている、もしくは関わった限り、大なり小なりの影響を他人に与えているからです。影響の与え方というのは様々です。ですから、自分が納得し、自分の人生に意義を見出せるだけの影響を一定の人に与えることができれば、それでその人の人生は十分すぎるほどの意義があったと言えるでしょう。
しかしながら、やはり影響を与えるのであれば、良い影響を与えた方がいい。世界的なテロリストになって、全世界の恵まれない子供達に暴力による抵抗を教えるよりは、マザー・テレサのように、人に尽くす優しさを広めていきたいとは思わないでしょうか。ここでも人による価値観の違いが現れてくるので、一概にこれが正しい、あれが悪いとは言えません。そのような価値観を排除して単一の正しさを広めていくことは、形の無い暴力でもありますから。しかしながら、おそらく大部分の人が心の奥底でうっすらと理解している善という概念、その概念に則った行いをしていくことの方が、悪いとされている行いをしていくことより良いというのは、皆さんも賛成して頂けると私は願っております。
では、その善いというものに共通して見られる点は何なのでしょうか。それは、「誰かのために」という想いだと私は考えます。他人の為に尽くすこと、これはほぼ無条件に善い行いだと言えないでしょうか。例えば、先ほどのマザー・テレサの例に然り、空き缶をきちんと分別してゴミ箱に入れることまで、その根底には人のためを思う気持ちがあると私は考えます。よく言われる「みんなの迷惑にならないように」というのは最低限の節度でありまして、それは「みんなのために」というように、さらに一歩踏み込むことができます。そして、そこに少なからず共通して見られるのは、他人への思いやりと言えるでしょう。他人を思いやる気持ち、これが善いことではないと否定することはできないのではありませんか。ここで少し反論される方がいるかもしれません。善い行いと思っていても、他人からしてみれば悪い行いと捉えられることもある、と。お節介と言うのがその良い例です。しかしながら、重要なのは、自分自身の心から善いと思うことのできる意志のもとに行動することなのです。その結果として引き起こされる出来事が、他人の目から見ていらぬお世話に見られたとしても、心から善いと思える意志のもとにある行為は、決して悪いとは言えません。ただ、人間というのは多様です。生まれた環境、文化などの違いによって、その価値基準というのは様々です。これは非常に複雑で難しい問題なのですが、また後ほど触れることにします。
話はずれましたが、「誰かのために」という方向性が持つ善性について、とりあえずのところ納得していただきたいと思います。(何か歯にひっかかるという人は、後に詳しく考えてみますので、次章を先に呼んで頂いてもかまいません。)この考え方は非常に漠然としすぎている気もします。ですが、よく考えてみますと、この世には自分と他人の2種類の人間しかいないのです。その2種類いる人間のうちの一方をより愛するということ、これほど明瞭なことはないのではないでしょうか。私はこの「誰かのために」という信念を自分の中に一つの方向性として位置づけることが最良であるように思うのです。人は「誰かのために」行動するとき、最も充実した気分になれるような気がします。これは私の経験からでしかありませんが、ボランティアなどを行ったことのある人はお分かりいただけるでしょう。人のために動いているとき、私は非常にすがすがしく、満ち足りた気分になるのです。相手が喜ぶ顔を見ると、私も嬉しくなるのです。悲しい顔をしていると、何とかして元気を出してもらいたくなるのです。もちろん、この想いを全ての人が共有しているとは考えてはおりません。しかしながら、大抵の人がそのことに共感していただけることと信じております。そうでなければ、この世の中は悲しすぎます。また、自分のために働き、金を稼ぎ、欲しいものを買うために頑張ることも非常によいことです。それを否定するわけではありません。自分が幸せでない限り、他人を幸せにすることは到底できないでしょうから。ただ、私がいいますのは、自分が幸せになり、少しでも自分自身に余裕ができたのであれば、次は「誰かのために」行動して欲しい。誰かの笑顔を見るために何かをして欲しい。それが我々の人生を、より充実したものにするはずです。では、次に、本章のテーマでありました「誰かのために」という概念が持つ善性について考えてみようと思います。人生の意義
人はなぜ生きているのでしょうか。人生とは何のためにあるのでしょうか。
この世には、様々な人間が生きています。そして死んでゆきます。総理大臣になって国を動かすようになる者もいれば、不慮の事故で幼くして死んでゆくものもいます。この差は一体何なのでしょうか。このような多様性の中で、人生の意義というものを普遍なものとして考えようとすること自体、いささか無理のあることなのかもしれません。しかしながら、私が思いますのは、そのように不遇にも生まれてすぐ死んでしまう命でさえ、何らかの意義があるのではないかということです。
私は、この世に無駄なものは何一つといって無いと考えています。路上の空き缶一つとっても、そこには何かしらの意味が見出すことのできるものと信じております。それはどうしてでしょう。私が思いますに、この世の中というのは関係性の連続によって成り立っているものです。例えば、私自身を見ましても、私の存在自体が既に様々な人、モノとの関係によって成り立っているからであります。私の友人、親族はもとより、私が日常的に見る様々なモノ、それは私という存在と関係し、私に大なり小なりの影響を与えています。そのような人、モノは直接私が見ることのできなくてもかまいません。その事実が、何らかの媒体を通じて私に知覚された時点で、それは既に私に関係し、影響を持つ、または影響の潜在性を持つのです。人は、何らかの形で知覚したもの全てを、意識的、無意識的に、自分の中で蓄積していると私は考えます。その蓄積物は、その人の後の人生でその人に何らかの示唆を与えうると言うことができます。そのような蓄積によって、私達は考え、想像することができるのです。もちろん、その知覚された対象物が持つ影響力というのはまちまちです。先ほど申しました路上の空き缶一つについても、ある人はそのことについて何も感じないかもしれませんし、ある人は空き缶を捨てるのはよくないことだと考えるかもしれません。前者の人の中でも、その人の人生の中で、その空き缶、もしくは別の空き缶でもかまいませんが、それら一つ一つの積み重ねが彼の心を動かし、空き缶を捨てないようにしようと考えるようになる可能性もあります。その空き缶一つが持つ影響力は微々たるものですが、その影響の蓄積がその人を動かすということは十分ありえることであります。もう少し例を述べますと、あなたが座っている机を見てみてください。そこにあるものの一つひとつに何らかの意義を見出すことができないでしょうか。二つある消しゴムの一つが無駄に思えても、その消しゴムはあなたの中に少しの影響を与えているはずです。もうこんな無駄な買い物はしないようにしようとか、この消しゴムを使っているときにあんなことがあったな、というような思い出まで、その消しゴムは持っているのです。その思い出を想起させる時点で、その消しゴムにはあなたに対する影響、そして意義があるとはいえないでしょうか。
ここで私の考えと言うのは、非常に人間と言うものに立脚しているものであると分かります。つまり、この世のどのようなモノであっても、意義を見出すことのできるのは人間だけであると考えられるからです。動物にそこにある草について意義を見出せということは不可能です。しかし人間ならばできます。その草はこのような効果があるとか、これを食べて動物は生きているんだなぁであるとか、はたまたその草に心癒されることがあるかもしれません。そのような意義を見出すことのできないものはこの世には無いだろうというのが私の考えです。この世のあらゆるモノには、意義の潜在性があり、それを紐解ける可能性がある限り、そのモノには意義があるといえるのではないでしょうか。
さて、人間の人生の意義にもどりましょう。このように考えてくると、様々な人間の人生の一つひとつにも意義があるということが分かるでしょう。なぜならば、その人が生まれてきた時点で、その人は既にその両親との関係の中にいるわけでありまして、その子がたとえすぐに死んでしまったとしても、その両親に与える影響というものがあるわけですから。その影響がいかなるものであれ、その子が影響を持つという事実は変わりないのであります。そして、影響を持った時点で、その子の人生は決して無駄なものではないのではありませんか。もし、自分の人生が無駄なように思える人がいたなら、それは間違いです。自分が今まで触れ合ってきた人たちの中に、その人は何らかの影響を必ず与えているからです。
このようなことを踏まえて、私が考える人間の生き方を考えてみます。皆さんもうお分かりでしょうが、それは、「いかにしてより大きな影響を世の中に与えることができるようになるか」ということです。これはあくまで私が持つ価値観でありますので、そんなことは無い、平凡に生きていく人生というものもいい、という意見がありましても、それはそれで結構であります。ただ、私は自分の人生に意義を見出したい。つまるところ、誰かに何らかの形で影響を与えたい。そのように考える次第であります。
はじめに
人間は多様であります。様々な人が生き、生活しているこの世界に起こる事象はさらに複雑さを極めます。その中において、私達一人ひとりに共通するものを見出そうとするのは不可能ですし、間違いでもあります。この人はこのような考えを持ち、あの人はあのような考えを持っている。だから人間は面白いのであります。したがって、これから私が述べることも、私という人間の世迷言と考えてくださって結構で御座います。私は、皆さまを説得して、私の考えを押し付けようとする気は毛頭御座いません。ただ、私の考えに共感してくだされば幸いであると考える次第であります。

